2022年6月7日火曜日

マタイによる福音書23章1~12節

律法学者とファリサイ派へのイエス様の非難の言葉と読める箇所ですが、律法が明らかにした罪と救い主による救いへと思いを向けるように促す言葉です。22章までの律法学者やファリサイ派との問答が前提となっている言葉です。律法学者やファリサイ派は律法を伝える「モーセの座」に神様の御心によって着いています。律法は神様に由来するものですから、彼らが教える神の律法を軽んじてはいけません。しかし、彼らの行いを見習ってはならないと言われます。本来、律法は人を生かすためのものです。しかし、多くの掟の重荷を負わされた人は、律法を果たせない悩みの中で救いの希望を失います。しかし彼らを助けようとはしません。何故なら、彼らはモーセの座に着く自分たちを人に見せることに熱心となって、神を愛することと人を愛することを見失っているからです。この二つを失ってしまったら、他のどんな掟を果たしても意味がありません。これは律法学者やファリサイ派に限ったことではありません。律法の下では罪が明らかにされますが、そこに救いはありません。救いは「救い主」を通して与えられるからです。律法の下で、掟を重荷として罪にあえぐ時から、救い主を迎える時が来ています。これからは、十字架において律法を全うしてくださった「救い主」が唯一の先生であり、律法学者もファリサイ派も群衆も弟子も私たちも皆兄弟です。「父」として賛美されるのは、私たちに救いをお与えくださる天の父だけです。そして、神さまのみ前で兄弟として生きる私たちを教えてくださるのは、教師であるキリストお一人です。

20201122日)

マタイによる福音書22章41~46節

 ファリサイ派、サドカイ派らとの問答が続きました。それは「旧約」の問答でした、その後に、イエス様の方から質問されました。「メシアは誰の子だろうか?」当時、預言者の言葉から、メシアは「ダビデの子」と言われていました。そこで直ぐに彼らは「ダビデの子」と答えました。イエス様はメシア(救い主)について質問をされて、「旧約」から救い主による「新約」へと人々の心を向けさせます。メシアを「ダビデの子」と答えた人々には、メシアをダビデ王やソロモン王のように異邦人を支配するような強大な権力と富をもたらす地上の王という理解がありました。しかし、イエス様は聖書の言葉を引用されて、ダビデ自身が神の右に座しておられる救い主を主と呼んでいるのであるから、救い主はダビデ自身やソロモンのようなものではない、と示されます。マタイ福音書は「ダビデの子、イエス・キリストの系図」という言葉で始まり、ダビデの家系にイエス様が生まれたことを示しています。しかし、イエス様は聖霊によって宿ったダビデの血筋ではない神の子です。神の子がダビデの家系に代表される「人間の罪」を担うために人の家系の中に与えられたのです。メシアは「ダビデの子」と答えたときに、人々の目の前にいた方は「ダビデの子」と呼ばれてエルサレムへ迎えられ、賛美された方だということに気づいたはずです。イエス様の問いは、救い主としてイエス様を迎えるのか、という問いへと関心を向けさせます。しかし、それは人々の間にイエス様への殺意を決定的にもたらしました。これは救い主として十字架へと進む決意の質問なのです。

20201115日)

マタイによる福音書22章34~40節

 当時、律法の掟を果たす時に、掟の言葉だけでなく解釈や言い伝えが大事にされていました。その律法の専門家がイエス様に最も重要な掟は何かと質問しました。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」イエス様はこのように答えられました。大事なのは、「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」というイエス様の言葉です。「律法全体と預言者」とは聖書全体のことを指している言葉です。そして「基づいている」と翻訳された言葉は「ぶらさがっている」という意味の言葉です。この二つの掟が全うされなければ、他の掟も守れず、それは偽善となります。しかし、この二つを全うすることは私たちにはできません。それでは私たちは神様に受け入れていただけません。だから、救い主であるイエス様が「まことの人」として最も重要な掟を十字架で全うしてくださいました。神様を愛して御心に従い、私たちを愛して十字架の死を成し遂げてくださいました。律法を完成された罪のない方として私たちを救ってくださいました。イエス様が十字架にかかって死んでくださり、イエス様ご自身が救いの基となって私たちを支え、神様の救いへと入れてくださるのです。

2020118日)

マタイによる福音書22章23~33節

 復活を信じていないサドカイ派の人々がイエス様に復活に関わる質問をしました。律法に、「兄が跡取りの無いままに死んでしまった時に、兄の妻を弟は娶って妻として跡取りを得なければならない」という掟があります。そうすると、復活したときに妻は兄弟の誰の妻となるのか。兄弟が妻を共有することは姦淫の罪です。そうすると復活があるならば律法に矛盾が生じてしまうと考え、それは神様の権威を損なう考えだから復活はない、という主張をしたいのです。イエス様はサドカイ派の主張に対して、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」と言われ、続けて「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」と言われました。ここで主イエスは、「復活の時」と言われます。復活はあると明言されます。復活は「神の力」によるものです。神様は、無から世界を、そして私たちに命をお与えになったお方です。この世において体験していること、結婚のなどの人間関係、重荷、病などの全てのことです。それらのものは、神さまを離れ、罪に脅かされた隣人関係であり、罪のとげです。復活の時に神様と共に生き、神様の愛をもって満たされる命である新しい永遠の命を与えられます。この地上の人生において与えられている賜物も重荷も、全て終わりを迎えます。そして、神様は私たちに、新しい歩みを与えて下さるのです。

2020111日)

マタイによる福音書22章15~22節

 人々は、イエス様を罠にかけようとして、皇帝へ税金を納めることが律法に適っているのかを尋ねに来ました。イエス様が、税金を納めなくてよいと答えれば反逆罪に問われますし、納めるべきと言えばローマ帝国の支配を良く思っていない民衆の支持を失います。この質問をイエス様は「偽善」と言われます。そして「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と教えられました。税金を納める銀貨には、皇帝の肖像と銘が刻まれていました。当時のローマ皇帝には「神の子」を意味する銘がありました。つまり、この銀貨はローマの皇帝が権力を用いて民に与えたものであり、皇帝のものとして皇帝に返すことに罪はない。しかし、イエス様が本当に大事にされたのは「神のもの」です。神のものとは銀貨のことではありません。神の肖像を刻まれた存在(創世記127節)である「人」のことを意味しています。私たち自身は神のものであるから、私たち自身を神へと返すこと、すなわち「偽善」を捨て「悔い改める」ことを求めておられるのです。それは皇帝も例外ではありません。皇帝もまた神さまのものである人です。神のものは神に返すということは、全面的に創造主であり、救いの神である主に立ち帰ることに他なりません。そのこと抜きに皇帝への税金問題だけを取り上げるのは、皇帝には神さまのご支配は及ばないと考えることであって、正しさを装う「偽善」が現れるばかりです。

20201018日)

マタイによる福音書22章1~14節

 イエス様は神様の救いをいただくことを婚宴に譬えられます。婚宴に招く王は神様で、王子がイエス様です。王子の婚宴に入ることが救われることを意味しています。王は婚宴の席がいっぱいになることを望んでいました。ところが、約束していた人たちは来ないどころか、王の家来を殺してしまいました。王の心を理解せず、王を尊ぶこともしませんでした。そこで、今度は見つけた人を全て婚宴の席に招きました。ところがそこに礼服を着ていない人がいたので、理由を王は尋ねますが、黙っていました。この人も王の心を理解せず、王を尊ぶことをしませんでした。王の家来を殺した人々を王は滅ぼし、礼服を着ていない人は外に追い出されてしまいました。どちらも、王に対して考えられない異常な対応をしています。しかし、ここに私たちを含む神様に背を向けて生きる人間の姿があります。神様からご覧になると、罪人のである私たちの姿は、あり得ないような姿なのです。王がこのような者を滅ぼし、外へ放り出すのは、当然です。ところが本来ならば王と共に怒るべき王子、すなわちイエス様は、罪人を救うために世に来られたのです。滅ぼされる私たちに代わって、十字架にかかって罪を贖ってくださいました。私たちの代わりに神の怒りを引き受けてくださいました。イエス様の救いの御業によって、神の国の外に放り出されるべき私たちは、婚宴の喜びに勝る神の国へと招き入れられるのです。

20201011日)

マタイによる福音書21章33~46節

  イエス様のたとえ話の中で、最も残酷な話です。残酷なことをした農夫たちの異常さが目立ちますが、それ以上に「わたしたちの目には不思議に見える」(42)のは、僕を殺されながら、何度も僕を送り、「息子なら敬ってくれるだろう」と息子までも農夫たちのもとへ送る主人の姿です。農夫たちをどうするだろうか、と問われて人々は「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、…(ぶどう園を)ほかの農夫たちに貸すにちがいない」と答えました。これが常識的な考えでしょう。ところが、ぶどう園の主人は違いました。主人は、悪い農夫たちを愛しているのです。だから、彼らが悔い改めることを期待し続け、遂に息子まで送っているのです。これは、イスラエル(ユダヤ人)の歴史であると共に、私たち人間へ向けられている神様の御心です。神様は私たちを愛し、期待し続けておられるのです。その中で、殺される息子であるイエス様も私たちを愛し抜いて十字架にかかってくださり、私たちの罪の贖いを成し遂げてくださいました。私たちの神様への信仰は、神様とイエス様の愛によって成り立っています。イエス様は隅の親石として、罪を打ち砕いてくださいます。福音は異邦人へと伝えられることになります。しかし、ユダヤ人が捨てられるのではありません。決して神様の方から私たちの悔い改めを諦めたりなさらないのです。これが神様の、「わたしたちの目には不思議に見える」愛なのです。

2020104日)

マタイによる福音書28章16~20節

 復活されたイエス様と弟子たちの出会いの場所は山でした。そこで聞いたイエス様のお言葉は、新しい時代の始まりと、その時代の中へと使命を与えて弟子たちを派遣する言葉でした。これは、旧約聖書の出エジプト記のシナイ山での神様とイスラエルの民との契約と、律法が与えられた出来事が意識されてい...