2022年6月7日火曜日

マタイによる福音書26章57~68節

 捕えられた後、イエス様は大祭司カイアファのもとへ連れていかれました。そこで、イエス様を死刑にするために罪を明らかにしようと祭司長たちと最高法院の全員は偽証を求めますが、証拠を得られませんでした。一人の人を殺そうとする罪を犯しながら、巧みに神の律法を利用して自分たちの罪を覆い隠そうとするグロテスクな人間の姿が記されています。最後に、二人の証人が、「神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる」とイエス様が言ったという訴えが出てきました。イエス様は神殿を「祈りの家」と呼ばれました。イエス様は救いの御業として、建物の神殿ではなく、救いにあずかる私たち一人ひとりを生ける神殿として、祈りの家としてくださいます。訴えられた言葉は、そのことをイエス様が言われた言葉でした。しかし、神への冒涜の証拠とされました。裁きの場は、もしもイエス様が死を逃れようと思われるならば、最後の機会であり、誘惑の時でした。しかし、イエス様の十字架の救いのご決意は揺るぎませんでした。イエス様は罪によって死に追いやられたのではなく、救い主として私たちの贖いとしての死を選んでくださったのです。その救いのご決意は、自分を裁いている大祭司をはじめとした人々にも向けられていました。今は、罪の支配の下でイエス様を救い主として受け入れることができず、罪の中で神の独り子を死刑にすることに熱心な彼らも、やがて、再び来られるイエス様を、救い主として迎える日が来ることを告げてくださいます。御自分の命ではなく私たちの救いを選んでくださったイエス様の愛があります。

2021516日)

マタイによる福音書26章47~56節

 ゲツセマネの祈りの直後、イエス様はイスカリオテのユダに案内された人々に捕えられます。ユダはイエス様を見分けるために接吻を合図にしていました。彼は「先生」と呼びかけて接吻します。これまで弟子たちはイエス様を「主」と呼んでいました。しかし、ユダはイエス様を救い主として「主」と呼ぶことを止めていました。ユダにイエス様は「友よ」と呼びかけられます。友という関係は、ギリシア語圏の文化では、友愛という重要な愛の関係と考えられていました。血縁に寄らずに、ただ愛によって成立するのが友愛だからです。最高の愛と考えられていました。ユダの裏切りの接吻に対して、イエス様は愛をもって応答されたのです。救い主を裏切るユダの罪は生まれない方がよかったと言われるほどの深い罪でした。しかしイエス様は決してユダを罪人として迎えることはなさいませんでした。罪人に定めず、愛する者として迎えられました。それだけでなく、これらのことは、聖書の言葉、預言者たちの書いてきたこと、つまり神様の御計画として「実現されなければならない」と重ねて語られました。イエス様は、ユダも、ご自分を捕えに来た人々も、逃げ去った弟子たちも、誰一人として「罪人」となさいませんでした。ここに私たちの罪を担い十字架で死なれる救い主の愛があります。この愛に触れた時、ユダの裏切りの時が止まりました。イエス様はユダの救い主でした。イエス様は、他に手段がないから諦めて十字架の死を受け入れられたのではありません。私たちを愛し、愛し抜かれたからこそ、十字架への道にご自分を預けられたのです。

202159日)

マタイによる福音書26章36~46節

 福音書は、イエス様が人々から離れて祈っておられたことを度々記しています。ゲツセマネはイエス様がお一人で祈られるときにこれまでも訪れてきた場所だったのでしょう。しかし、この時は弟子たちの中から三人をお連れになりました。後の教会へイエス様の祈りを証人として伝えさせようとなさるかのように、御自分の祈りを見せ、聞かせられました。また、一緒に祈るように求められました。イエス様の祈りは、十字架の死の悲しみから絞り出された祈りでした。祈りの姿勢は、「うつ伏せ」と伝えられています。神様の他に頼るところのない深い嘆きと苦しみの中にいる者の祈りです。その中でイエス様は、十字架の死を過ぎ去らせてほしいと願われました。まことの人となられたイエス様だからこそ、神様に裁かれ、捨てられる死の恐ろしさをよくご存じだったからです。しかし、イエス様は三度、父なる神からその願いを拒絶されました。イエス様は、御自身の願いではなく父なる神さまの御心が行われるように願われました。私たちも「御心が行われる」ことを祈ります。しかし、本当に御心が行われることを願うというのは、神様に問題を丸投げして考えないことではなく、深く考え抜き、最後まで神様に祈り、神様の御心の前に打ち砕かれることです。イエス様は、祈りについて「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」(マタイ66節)と教えられました。ゲツセマネの祈りは、イエス様の密室の祈りを明らかにし、「御心が行われるように」という祈りの重さを示してくださっています。

202152日)

マタイによる福音書26章31~35節

 イエス様は弟子たちのつまずきを予告されます。弟子たちのつまずきは、神様によって預言者を通して伝えられていることでした。イエス様の十字架を前にして罪の闇はますます深まることが神様によって定められています。しかし、イエス様はつまずきの予告に続いて、「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と伝えられます。先にガリラヤに行って待っていると約束されました。それは弟子たちのつまずき(裏切り)の罪を責めるためではありません。なぜなら、イエス様につまずき、そして裏切る罪も、十字架で贖ってくださるからです。「復活した後」とは、あなたがたを罪人とするために待つのではないということです。つまずきの罪を犯し、その罪の重荷に打ちのめされる弟子たちへのイエス様の深い愛の言葉です。その中には、イエス様を裏切る計画を進めているイスカリオテのユダも含まれています。ユダは後に、罪の重荷に耐え切れずに自ら死を選んでしまいます。それはイエス様の望むことではありません。むしろ、もう一度ユダと出会うことを救い主は望まれ、復活の命の中でユダを迎えようとされているのです。鶏の鳴く前に、イエス様と何のかかわりもないと言った後、罪の重荷に激しく泣いたペトロを愛する者として迎えてくださいます。どんな罪よりも、イエス様の十字架の愛と救いのほうが大きいのです。どんな罪も十字架の救いに勝つことはできません。そして、キリスト者は、つねに先に行かれるイエス様の赦しと慈しみと愛と恵みに迎えられます。これが教会を支える岩(ペトラ)である信仰です。

2021418日)

マタイによる福音書26章17~30節

 イエス様と弟子たちの最後の夕食は「過越の食事」でした。これは神様が奴隷であった先祖をエジプトから救い出してくださったことを記念し、神様の救いを子孫へ伝えていく重要な食事でした。イエス様はそこで教会が「聖餐」として受け継いでいく新しい神様の救いの食事を教えてくださいました。パンを裂いて弟子たちに与えて、「これはわたしの体である」と教えられました。そして、杯を取って同じく弟子たちに渡して「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言われました。「多くの人」の中には、イエス様を捨てていく弟子たち、裏切るユダも含まれています。「契約の血」とは、出エジプトの後、シナイ山でイスラエルの民と神様との間に契約が結ばれた時に、契約のしるしとして民の長老に振りかけられた血のことを指しています。神と民の契約は、これからは自分たちを救い出してくださった方を神様とします、という契約です。神様のご意志に従うということです。イエス様が十字架において示された神様のご意志は、罪人を「赦す」ということでした。イエス様が十字架で流された血は、神様の「赦す」というご意志に罪人は属するという契約です。イエス様を裏切るという「生まれない方が良かった」と言われるほどの罪を犯す罪人であっても、神さまの赦しの意志に従い、赦されるのです。そして、イエス様は、御国で共に飲む時まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはないと言われました。この契約は、別の契約の血を必要としない最終的な神さまの決定なのです。

2021411日)

マタイによる福音書26章1~16節

 イエス様は、言葉による御業を終えられると、再びご自分の死を予告されます。二日後に十字架にかかり死なれるのです。祭司長や民の長老、そしてイスカリオテのユダの裏切りと、罪の世も救い主への殺意を明らかにしていきます。罪がイエス様を十字架に着けるための計画を立てています。その間に挟まれるように、イエス様の頭に油を注いだ女の物語があります。これは、神様による十字架の準備です。女の事情や言葉はありませんが、イエス様への愛から油を注いだことは間違いありません。救い主は「メシア」という言葉で、本来の意味は「油を注がれた者」です。神様に特別な務めを与えられた者、例えば祭司や預言者や王が受ける者です。それがやがて「救い主」を意味する言葉になりました。油を注がれることによって、世にイエス様を明確に「メシア」すなわち救い主として明らかにされたのです。それは同時に、罪人の救いを成し遂げる御業に任命されたということです。イエス様の死が定められました。そこで、イエス様は油を注がれたことを、ご自分を「葬る準備」として受け入れられました。当時、埋葬の際に体や巻いた布に香油を塗るという習慣がありました。弟子たちは女のことを責めました。弟子たちも罪によってイエス様への愛を見失いつつあることを示しています。救い主を人々から奪い去ろうと罪が画策する中、神様がイエス様のために女を遣わしてくださったように思えてなりません。罪の闇の迫る中で、イエス様と私たちへの父なる神の愛が輝いたのです。だから、福音が語られるところで記念として語り伝えられるのです。

2021321日)

マタイによる福音書25章31~46節

 再臨についての教えの最後は、再臨されたキリストが王として裁きを行われることが語られています。右と左に分けられた人々は、一方は祝福をいただいて、もう一方は罰を受けます。この譬えを聞いて、自分はどちらに分けられるのだろうか、と考える方もあるかもしれません。その際に、胸を張って右側に分けられると言える人は少ないのではないでしょうか。そこで、王であるキリストが問われるのは「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人」への行いです。「最も小さい者」とは、世の貧しい者ではなく、キリスト者のことです。キリスト者は間違いなく、イエス様が間違いなくご自分の「兄弟」と呼んで愛している存在です。神を信じる信仰は、「存在を信じている」のではなく、神を愛していると言い換えられます。イエス様を信じる信仰も、「イエスという人が実在したことを信じる」のではなく、イエス様を愛すると言い換えられます。「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は兄弟をも愛するべきです。これが、神から受けた掟です」(ヨハネの手紙一42021節)。そして、イエス様がこの譬えで教えてくださるのは、最も小さい者の一人に向けたどんな小さな愛も、イエス様はご自分に対する愛として覚えていてくださるということです。だから、イエス様を愛する者は右と左に分けられることを恐れることはありません。私たちが忘れるほどの小さな愛も必ずイエス様は覚えていてくださいます。

2021314日)

マタイによる福音書28章16~20節

 復活されたイエス様と弟子たちの出会いの場所は山でした。そこで聞いたイエス様のお言葉は、新しい時代の始まりと、その時代の中へと使命を与えて弟子たちを派遣する言葉でした。これは、旧約聖書の出エジプト記のシナイ山での神様とイスラエルの民との契約と、律法が与えられた出来事が意識されてい...