2021年8月19日木曜日

マタイによる福音書6章25~34節

 大変よく知られたイエス様のみ言葉です。6章のまとめとして、神さまを父として信じて生きる私たちに、神の国と神の義を求める生き方を勧めておられます。このイエス様のみ言葉を行っていくところに神の国の恵みが与えられていきます。「行っていく」というのは、当に文字通り「行う」ということです。ここでイエス様は「空の鳥をよく見なさい」、「野の花がどのようにして育つのか、注意して見なさい」、と言われています。神の国の恵みを真にご存知であり、神の義を教え、実現される救い主であるイエス様が「しなさい」と言われていることを、まずやってみることです。イエス様が「空の鳥をよく見なさい」と言われたみ言葉を思い出したら、見上げて鳥を探すのです。「野の花を注意して見なさい」と言われたから、足を止めて野の花を見つめるのです。イエス様が教えてくださったようにしてみることから神の国に生きる現実は始まるのです。神の国と神の義を求めるとはそういうことです。父なる神を信じ、イエス様を信じて、やってみなさいと勧められることを「やってみる」ことです。一体それが何の意味があるのか、どういう理屈で思い悩むことから私たちを解放してくれるのか、と考えはします。でも実行しないのです。たかだか数十年の人生経験から分かったつもりで永遠の神の愛を見損なって歩いているのです。まず、やってみてください。それが信じて生きるということです。そうしたら、「みな加えて与えられる」、とイエス様は断言しておられるのです。

2018819日)

マタイによる福音書6章24節

 わずか1節のみ言葉ですが、時代ごとに多彩な解釈をされてきた箇所です。ここで言われている「富」はそのまま「お金」のことです。神さまとお金に同時に仕えることはできない、と教えられていることは明らかです。お金というのは更に、神さまでない被造物ということですから、神さまと偶像に同時に仕える(信じる)ことはできないということでもあります。しかし、私たちは同時に仕えるような生き方をしているなあ、と自分の生き方を振り返って思うのではないでしょうか。実はその主人を選べると思っている感覚こそが「大間違い」なのです。「仕える」とは当時の理解では奴隷として仕えるということです。奴隷は主人を選べません。報いは自分の所有者である主人からのみいただきます。私たちは神か富かどちらかに所有されているということです。どちらかを選ぶ力など私たちにはないのです。そして、ここで主イエスが伝えたいのは、私たちは「富」という言葉で代表される被造物を主人として仕えているのではなく、神さまに所有されているのだということです。神さまは御心をもって私たちを「救う」と決断してくださり、ご自身の独り子イエス・キリストを十字架で代価として支払って私たちを罪と悪と滅びからご自身の所有としてくださいました。しかも神さまは、私たちを奴隷ではなく自由な「子」として迎えてくださいました。父なる神に親しんで仕え、父なる神から豊かな報いをいただいて生きるのが信仰者なのです。

2018812日)

マタイによる福音書6章22~23節

 「あなたがたの中にある光」、これは神さまからいただく光です。澄んでいる目とは、「まっすぐに見る」ということです。脇目をふらずに本当に必要なもの、欲しいものに目を向けている、そんな眼差しを「澄んでいる目」と言われています。何を見つめているのでしょうか。それは、神さまの報いです。これまでイエス様は、施し、祈り、断食という信仰の行いの大事な要点は、「誰からの報いを求めているのか」であることを教えられました。信仰の行いは神さまにご覧いただくだけでよい行いです。神さまに向かって願い求めていながら、手は人の方に差し出して称賛を受け取ろうというのはおかしな話です。本当に求めている大きな恵み、幸いや赦しは神さまからいただくものです。神さまこそが私たちの全身を明るくするまことの光を与えてくださる天の父です。そのことを信じて、まっすぐに神さまを見つめる眼差しが「澄んでいる目」です。この目で神さまの愛と恵みを見つめるとき、恵みの光が私たちのうちに「信仰」の火を灯します。この光をいただいて私たちは全身を明るくするのです。恵みの光の源である神さまから目を反らして見るのは、罪に支配された暗さです。そこに私たちを明るくする光はありません。そこで与えられる世の報いは私たちの内の光を消し去ろうとします。神さまに救いの希望があります。私たちは神さまから光をいただいて全身を明るくし、私たち自身が恵みの光を携え世を照らすのです。

201885日)

マタイによる福音書6章19~21節

 イエス様は天に富を積みなさいと言われました。この「富」とは私たちが命を預けることができる頼りとするものです。ある人にはお金かもしれません。才能かもしれません。愛情や友情といった人との交流かもしれません。それらは大切です。しかし地上に積まれる富の特徴は、虫が食ったり、さびたり、盗まれたりすることです。言い換えるならば永遠ではないということです。永遠ではないので、私たちがどんなに頑張って保とうとしても、本当に必要とした時に失われているかもしれないのです。それでは天に積む富とは何でしょうか。献金でしょうか。良い行いでしょうか。徳でしょうか。天における富は、地上の富と異なり「永遠」のものです。失われないことに特徴があります。例えば徳ということで、「赦し」についてイエス様は熱心に教えてくださいました。しかし、その中でイエス様が言われたのは、神さまが私たちを赦してくださることに比べたら、私たちの赦しの何と小さいことか。むしろ、神さまの赦しの大きさを知ったならば、赦すことは富ではなく、当たり前のことに過ぎない、ということでした。ここに天に積まれる富が何であるかを知る手掛かりがあります。献金も、善行も、徳も、私たちに救いの命を与える力のある永遠のものではありません。しかし、罪びとの私たちを赦し、受け入れ、永遠に愛してくださる方、永遠の命をもって迎えてくださる方がおられます。すなわち天の父である神さまです。この方ご自身が天の富として私たちをお支えくださるのです。

2018722日)

マタイによる福音書6章16~18節

 「施し」、「祈り」に続いてイエス様が教えられたのは「断食」についてです。「施し・祈り・断食」はユダヤの人々が大切にする信仰の行いでした。イエス様は断食を否定はされませんでしたが、断食についての致命的な間違いを指摘なさいました。断食は、本来悔い改めの行為でした。そのため、苦しい顔をすればそれだけ真剣に悔い改めに集中していると他人に思ってもらえます。敬虔な信仰者だと評価してもらえます。そこに、致命的な間違いがありました。悔い改めで求めているのは神さまからの赦しであって、人の評価ではありません。人の評価を得て、肝心の神さまの赦しを受け損ねてしまったら本末転倒です。だから他の全てに背を向けて、ただ神さまに集中することが最も大切なことになります。神さまを父と呼ぶ私たちにとって、罪の赦しをその憐れみと愛をもって豊かにいただく悔い改めは、苦痛どころか、罪から解き放たれる喜びの時なのです。だからイエス様は、むしろ喜びを表す身支度をするべきだと教えられました。父なる神さまは、私たちの罪を赦してくださるために独り子であるイエス様を与えてくださいました。イエス様の弟子として神さまを父と呼ぶ者は、イエス様を迎えて、罪の赦しの恵みをいただいています。イエス様と弟子たちは断食しませんでした。罪の赦しを与える救い主を迎え、喜びに満たされているので無理に断食をする必要はないのです。

2018715日)

マタイによる福音書6章14~15節

 主の祈りに続いてマタイ福音書は赦しについての御言葉を記しています。もし私たちが過ちを赦すなら、父(神)もお赦しになるが、もし赦さないなら、父(神)も赦さない、と言われます。多くのキリスト者が、まず神がキリストの十字架によって私たちの罪を赦してくださり、その赦しの恵みの中で私たちも隣人の過ちを赦そう、と理解しています。これは間違った理解ではありません。しかし「赦す」ことはキリスト者の努力目標ではありません。「赦すべき」責任があるのです。キリストの十字架によって父なる神から罪の赦しをいただいたキリスト者は赦さなければならないのです。キリスト者はこの世の誰よりも真剣に「赦し」に取り組むのです。罪を指摘すること、非難すること、評価することは、赦すことに比べたら簡単なことです。赦すことは難しく、目を背けておきたいですし、父なる神さまの前で見栄えのいい自分を見ていただきたいと思うかもしれません。しかしそれは祈りの姿勢としては不十分です。赦しは私と隣人の間だけで始まるのではありません。本当の赦しはそこに父なる神さまをお迎えして、祈りにおいて赦せない自分の心を神さまに知っていただき、父なる神さまと共に赦しを始めるのです。そのように父なる神を信頼することが祈る姿勢です。本当に難しいことであり、時に自分ではどうにもならない「赦し」の実現を父なる神と共に始めるのです。

201878日)

マタイによる福音書6章13節

 主イエスが教えてくださった祈りの最後は、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」という祈りです。私たちが普段祈っています主の祈りでは「われらをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈っています。「誘惑」と「こころみ」は似ているようで、全く違うものです。「こころみ」は本来、父なる神が用意される私たちへの訓練のことです。ですから、合格、不合格を決めるものではありません。試みに失敗したように私たちが考えても神さまが私たちを見放すことはありません。神さまの試みは必ず私たちの信仰を成長させてくださいます。一方で「誘惑」は「悪い者」すなわち悪魔からの誘いです。父なる神さまから再び私たちを引き離し、罪の奴隷とする誘いのことです。これは恐ろしいものです。私たち人間の力では悪魔の誘惑に勝つことはできません。それほどに悪魔の誘惑は狡猾で強いのです。だからこそ、私たちはこの悪魔に勝つことのできる天の父に願うのです。もう二度と天の父を失うことのないように願うのです。悪魔の誘惑に負け、私たちが天の父に背を向けてしまうことがあっても。永遠に神さまは私たちの天の父であり続けてくださることを信じて祈るのです。神さまを天の父と信じることは、どんな誘惑にも揺らがない強靭な精神力を指すのではありません。むしろ本当に神さまなしでは弱い自分を知り、その自分を変わることなく愛し受け入れてくださる天の父なる神さまと共に生きることが信仰です。

2018617日)

マタイによる福音書28章16~20節

 復活されたイエス様と弟子たちの出会いの場所は山でした。そこで聞いたイエス様のお言葉は、新しい時代の始まりと、その時代の中へと使命を与えて弟子たちを派遣する言葉でした。これは、旧約聖書の出エジプト記のシナイ山での神様とイスラエルの民との契約と、律法が与えられた出来事が意識されてい...