2021年10月28日木曜日

マタイによる福音書16章21~28節

 神様によって示され、シモンがイエス様のことを「救い主、生ける神の子」と告白した「このとき」から、イエス様は十字架の苦しみについて弟子たちに伝え始められました。イエス様は私たちの罪の贖いとして十字架で死なれ、復活される救い主です。するとシモン・ペトロがイエス様をわきへお連れしていさめ始めました。ペトロのイエス様を慕う心から出た行いですが、イエス様はそこに「サタン」の誘惑を見て、ペトロではなくサタンに対して引き下がることを命じられます。イエス様が救い主であることが人に啓示された救いの支配に対してサタンが間を置かずに誘惑の手を伸ばしてきたのです。かつて荒野でイエス様が経験されたサタンの誘惑がここで繰り返されています。十字架にかからずに「全世界を手に入れる」誘惑です。イエス様はそれを拒絶なさり、併せて弟子たちに「自分の十字架を負って」従うことを求められます。十字架は神様が与えられるものです。イエス様には、罪の贖いのための苦しみの十字架があり、私たちにはイエス様を「救い主、わが神」と信じる十字架があります。この十字架を背負い続けて、神様から離れずに従うことを求められました。イエス様を信じる十字架が重荷となって私たちを苦しめるかもしれません。しかし、十字架を負って従う先に神様のくださる命が約束されています。

2020315日)

マタイによる福音書16章13~20節

 イエス様は弟子たちに、人々がイエス様のことを何と言っているかを聞かれました。弟子たちが答えた中で、「エリヤ」も「エレミヤ」も旧約聖書に記されている大預言者です。人々がイエス様に向けている評価は大変に高い評価と期待が向けられていることを意味しています。そこでイエス様は、弟子たち自身はイエス様を何者だと思っているのかをお尋ねになりました。シモンが「あなたはメシア(救い主)、生ける神の子です」と答えました。イエス様は、シモンの答えは神様によって与えられた答えだと言われます。そしてイエス様を「救い主、神の子」と告白する神様が与えてくださった信仰の上に教会を建てると言われました。「イエス様はあなたにとって何ですか?」と私たちも一人ひとり問われており、そして今も神様は「イエス様は私の救い主、私の神です」という信仰を与えてくださいます。私たちがイエス様を救い主と信じる信仰は神様の賜物です。それは奇跡にすがるのでもなければ、聖書の言葉を学ぶだけでも得られません。エリヤでもなくエレミヤでもなく、「私の救い主」であるキリスト・イエスを迎える信仰の上に建つのが教会です。教会は委ねられた「天の国の鍵」であるイエス様を救い主と告白することを通して、神様の恵みへと人々を「つなぎ」、罪の支配から「解く」、御業に仕えるのです。

202038日)

マタイによる福音書16章5~12節

 しるしを求めたファリサイ派とサドカイ派の人々との問答の後、イエス様は弟子たちに彼らの「パン種」に注意しなさいと教えられました。しるしを求めることは、熱心な信仰のように思えるが、実際は神様に背を向けているからです。しかし弟子たちはイエス様の言葉が理解できずに、パンを用意していないことを叱っているのだと勘違いしました。そのような弟子たちを「信仰の薄い者」と評されました。そして弟子たちが体験した神様の恵みの出来事である五千人にパンを与えた奇跡と、四千人にパンを与えた奇跡を思い出させます。「信仰が薄い者」とは、神様の恵みを忘れてしまう者のことです。私たちの人生の歩みを、ボートを進ませる様に譬えた方がいます。オールを漕ぐと、漕ぐ人の背中の方にボートは進みます。つまり、ボートを進ませる人が見ているのは後ろの風景です。後ろの風景の中に、目印を見いだして、それを頼りに真っすぐにボートを進めることができます。人生において目印となって私たちが真っすぐに神様を信じて進むために、恵みのしるしは与えられています。信仰薄い者は、後ろが気になって、目印を見失ってしまう(忘れてしまう)のです。神様は、イエス様の十字架と復活という確かな恵みのしるしを与えてくださいました。十字架と復活のしるしを想い起し、進むことが信仰なのです。

202031日)

マタイによる福音書16章1~4節

 イエス様が救い主なのか、神様から遣わされた方なのかを試そうとして、天からのしるしを求めた人々がいました。その人々にイエス様は痛烈な言葉を返しておられます。天からのしるしを求めるのは信仰熱心なように見えますが、実際は「よこしまで神に背いた時代の者たち」として、神様に背を向けていることをあらわしています。しるしをもって人々を驚かせて、イエス様を救い主として信じさせればいいと誘惑したのは、荒野でイエス様を試した悪魔でした。天からのしるしがあれば信じるというのは、悪魔に支配された心なのです。そのように、人は悪魔の支配する時代の中にいます。しかし、神様はその時代の中に独り子を送ってくださいました。しるしを求めることは神様を試すことで、それは罪です。しかし、このような罪に支配されている私たちを救うために、救い主は来てくださったのです。そして、しるしを与えてくださいます。それを信じるならば、「夕焼けだから、晴れだ」と言えるように、神様の救いの時は来ていると信じるためのしるしです。それを「ヨナのしるし」と言われます。これは旧約聖書のヨナ書のことを示して、イエス様ご自身が十字架で救いの御業を成し遂げられた後、三日目に復活なさることを言われています。死からの復活という神様によるしるしが与えられます。唯一のしるしであるイエス様の復活によって、私たちは神様の救いを信じ、よこしまな時代から神様の救いの完成へと向かう新しい時の始まりを知ることができるのです。

2020216日)

マタイによる福音書15章29~39節

 既に読んできたマタイ福音書の記事を思い出させるような箇所です。「山に登って座って」というのは、山上の説教でのイエス様のお姿を思い起こさせます。大勢の群衆が病人を連れて来て、彼らをイエス様がいやされたことも、これまで何度か読みました。救い主の到来を意味する光景として、115節でイエス様が示された光景です。そして四千人に食べ物を与えた奇跡は、5千人に食べ物を与えた奇跡とそっくりです。しかし、これまで読んできた記事を思い起こさせることにこの箇所の意味があります。同じことであることが大事なのです。なぜなら、このイエス様の恵みの御業にあずかったのは、異邦人だからです。マタイ福音書は、群衆が「イスラエルの神を賛美した」と記しています。これは異邦人がイスラエルの神を賛美したということです。この箇所の前でイエス様は「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(24)と言われました。しかし、カナン人の婦人の言葉によって、神の憐みは異邦人にまでも及ぶことが明らかになりました。神様の御心を知って、イエス様はユダヤ人の間でなさった神様の憐みの御業を異邦人の間でも、全て行ってくださったのです。イエス様は、ユダヤ人だけの救い主ではなく、異邦人にとっても、そして私たちにとっても救い主として来られたのです。

202029日)

マタイによる福音書15章21~28節

 イエス様は異邦人の住むティルスとシドンの地方にわざわざ行かれました。イエス様が異邦人の地に行かれなければカナンの女に出会うことはなかったでしょう。偶然の出会いではなく、カナンの女の「憐れんでください」という願いを聞くために赴かれています。にもかかわらず、女の願いにイエス様は沈黙されています。弟子たちの言葉を受けて、ようやくイエス様が答えられたのは「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」という神さまの御心を明らかにされた言葉でした。女の願いのためにここまで来られたイエス様ですが、神様の御心はまだ癒しを命じておられないのです。イエス様は神様の御心に従順であり続けられました。ですから、神様の御心を沈黙の中で問い、イエス様も憐みを求めてくださっていたのではないでしょうか。やがて神様は女に見事な信仰の知恵を与えられました。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」主人である神様の憐みは食卓からこぼれる程に豊かです、と言ったのです。この神様が女に与えた知恵の言葉は、神の子であるイエス様を心から喜ばせました。神様の憐みの御心を知ったイエス様は、心から感心して、喜びをもって女の願いどおりに娘をいやしてくださいました。

202022日)

マタイによる福音書15章1~20節

 「イエスは、何者か?」が大きなテーマとなっている箇所を読んでいます。エルサレムの宗教的な指導者たちにガリラヤで活動されている新進のラビとしてイエス様のことが伝わったのでしょう。そこでイエス様の言動を監査するためにファリサイ派と律法学者がやってきます。そこで彼らは、イエス様の弟子たちが食事の前に手を洗わないことを見咎めました。当時のユダヤ教では「汚れ」を清めることが重視されていました。「汚れ」は、神様にふさわしくないことを意味します。異邦人や罪人と一緒に過ごしたなら、彼らの汚れを洗い落とさないといけないと考えて、熱心に洗うのです。その根拠は「言い伝え」でした。人の言葉でした。それに対して、イエス様は「神の言葉」に立って反論されます。神の言葉よりも人の言葉を重んじる時、救いは「人の功績」によって決まります。しかし、救いは神様の御心によって定められます。神様は人を愛し、神の言葉としての律法を与えてくださいました。人を神の祝福から遠ざける行いを戒められました。それは人を救うためです。神の言葉を人の言い伝えで曲げてしまい、それを神の言葉よりも大切にするのはおかしなことです。イエス様は、神の子として神様の御心を最もご存知です。だから、律法をお与えになった神様の救いの御心もよくご存じです。体の外から汚れがくるのではありません。私たち自身が罪によって神様から離れているのです。このような私たちの救いのために、神の言葉の成就として来られたのがイエス様です。

2020119日)

マタイによる福音書28章16~20節

 復活されたイエス様と弟子たちの出会いの場所は山でした。そこで聞いたイエス様のお言葉は、新しい時代の始まりと、その時代の中へと使命を与えて弟子たちを派遣する言葉でした。これは、旧約聖書の出エジプト記のシナイ山での神様とイスラエルの民との契約と、律法が与えられた出来事が意識されてい...