2021年9月2日木曜日

マタイによる福音書7章24~29節

 山上の説教の結びです。「これらの言葉」とは、これまでイエス様がお話しされた山上の説教の御言葉全てを指しています。イエス様が教えてくださったことは、天の国に入るためにもっとも大事なことは父なる神さまの愛を信じるということでした。そこから信仰者の生活も整えられていくのです。つまり、ここで言う土台としての「岩」とは、神さまの愛のことです。神さまの愛に支えられて人生の「家」を作る者は、天の国に通じる道を知っている賢い者だと教えられるのです。一方の「砂」とはそれ以外の全てです。神さまの愛以外に命を支えられることは、結局天の国に入る希望まで奪われてしまします。それは「愚か」です。当然みんな「岩」を選ぶはずです。しかし、実際はどうだったでしょうか。これらの言葉をお話しして、「それでは分かったね」とイエス様は天にお帰りになりませんでした。これらの言葉は「福音」の序章に過ぎないのです。そこでイエス様はすでに天の国に入る秘密を隠さず教えてくださいました。しかし罪によって目をふさがれたような私たちはついに自分で「岩」を選べなかったのです。皆が「砂」を選んで唯一の救いの「岩」を拒絶したのです。イエス様を十字架にかけてしまったのです。しかしこの十字架の上で死んでくださったイエス様が救いを成し遂げてくださいました。イエス様が「砂」に命をゆだねた罪の報いを引き受けてくださり、私たちのために救いの「岩」をもっとも深いところに据えてくださったのです。

20181021日)

マタイによる福音書7章21~23節

 イエス様はここで、ご自分を救い主、神の子としてあらわしておられます。それは、イエス様に向かって「『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」、と言われたことからわかります。天の国に入る者を、イエス様こそが決められると言われたのです。この「イエス様によって天の国に入れるかが決まる」というところが重要なのです。この箇所を「主よ、主よ」と呼ぶだけではダメで、信仰の行いがなければならないと読んだら間違いです。なぜなら、イエス様から「不法を働く者ども」と呼ばれた人々は、イエス様の名で奇跡をいろいろと起こした人々なのです。行いに不足があるとは思えません。しかし、イエス様の名でこんなに大きな業を成し遂げたのだから天の国に入れるのは当然、と考えたところに決定的な間違いがあるのです。天の国に入るということは、一切を救い主であるイエス様にお任せするということです。イエス様を「主」と呼ぶのは、それによって奇跡を起こして功績を稼ぐためではないのです。罪深く、本来なら天の国にふさわしくない者のために、ただ愛をもって十字架にかかり、私たちを救ってくださったイエス様の愛に、一切をお任せすることなのです。このイエス様を「救い主」、「わが神」、「主」と正しく呼び、信じる信仰も神さまからいただくものです。徹底的に神さまの愛によってのみ天の国は私たちに与えられるのです。

20181014日)

マタイによる福音書7章15~20節

 山上の説教の結びに当たってイエス様は天の国に入るための注意を語られます。ここでは偽預言者に警戒するように言われます。この前の箇所の狭い門の話に関連させると、天の国に通じる狭い門である主イエスご自身へと私たちを導いてくれる人を見分けなさいと言われるのです。偽預言者は巧みに私たちを誘って、滅びに至る門へと導きます。ですから私たちには本物と偽物を見分けるのが難しいのです。そしてもう一つ私たちが警戒すべきは自分自身で道を開けると思う「自己流」の誘惑です。信仰の事柄には、何故か自己流で突き進む人が必ずいます。しかし、天の国に通じる門は「唯一」イエス様しかおられない狭い門なのです。私たちが自己流で開拓するのではなく、イエス様が切り開いてくださった十字架の道を歩むのです。だから自己流もとても危険なのです。そこでイエス様は「その実」で見分けるように言われます。その導き手に従っている者の姿を見て、本物か偽物かを見分けなさいと言われます。この点でイエス様は極めてリアリストです。ダメなものはダメなのです。神さまの救いは、あなたがたの気持ちが満足すればいい、というようなものではありません。本当に天の国に入ることが出来なければ、私たちには「滅び」しかないのです。そこで見分ける目を養い、私たち自分自身が、天の国に通じる道をイエス様と歩んでいるかを意識することが大切です。そこに狭い門を示す、世の人のための証しも顕れてくるからです。

2018107日)

マタイによる福音書7章13~14節

 マタイによる福音書の山上の説教の結びに入ります。山上の説教にはそれぞれの箇所ごとの小テーマがありますが、全体の大テーマは「天国に入るには?」ということです。そこでイエス様が言われたのが「狭い門から入りなさい」です。「狭き門」というと受験のことを思い浮かべますが、この狭き門は閉じてはいませんし、試験に合格する必要もありません。喜んで迎えてくれる天国に通じている門です。この門は、救い主であるイエス様ご自身のことを指しています。ただこの門だけが唯一天国に通じているという意味で「狭い」のです。十字架にかけられた救い主によって救われるという唯一の天国に入る真理に、多くの人が我慢できないのです。立派な、厳格な、善良な人間でなければ天国にふさわしくないと多くの人が思うからです。だから信仰者ほど失敗を恐れる者はいないと思います。神さまの求める正しさを満たせないと天国に入れないと思ってしまうのです。そこで他人の評価によって自分の正しさを確かめようとします。より厳しい修行で自分を天国にふさわしくしようとします。その方が実は歩きやすく、安心な道に思えるのです。しかし、その道は救い主が開かれた門ではありません。救い主が開いてくださった門は、罪ある者を迎えてくれる門です。主イエスご自身が罪人を担い、迎え入れてくれる門です。ただ神さまの愛によってのみ成立する門です。多くの者がこの神さまの愛に任せきれないのです。だから自分を納得させる評価を与えてくれる大きな道を選んでしまいます。しかし神の愛に背を向けて選んだ大きな道は滅びに通じているのです。

2018916日)

マタイによる福音書7章7~12節

  求めなさい。そうすれば、与えられる」というイエス様の言葉は、大変によく知られている言葉です。多くは人生を成功に導くマインドのように読まれます。またルカ福音書の文脈から、諦めずに祈ることを教えていると理解されます。しかしマタイ福音書では「人を裁くな」という教えと、「人にしてもらいたいと思うことは、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」という言葉に挟まれた文脈、そして山上の説教全体の文脈に注目すべきです。山上の説教において語られてきたテーマは「神の国で生きる」ということでした。これは人生訓や祈りだけの教えでありません。「求める」とは何を求めるのか?丸太のように神さまの御心を見えなくしている罪を取り除いていただくことです。「探す」とは神の国に入る道、救いの道を探すということです。「門をたたく」とは、神の国の門をたたいて神の国に入れていただくということです。その時に、互いに「裁く」ことで身を守ってきた関係から、「してもらいたいことを、人にする」という仕え合う隣人関係という、神の国に生きることが始まるのです。この言葉を語ってくださっているのは救い主であるイエス様です。罪を取り除けるために、十字架にかかって罪を身代わりに担って死んでくださった救い主です。この方が十字架にかかってくださったことで、私たちの求めた罪の赦しが与えられ、探した神の国につながる道が作られ、見いだされました。この方の十字架の救いにあずかって神の国の門をたたくとき、門は開かれます。そこでは罪人を裁く「石」も、再び罪に誘う「蛇」もありません。天の父が迎えてくださるのです。

201899日)

マタイによる福音書7章1~6節

 「人を裁くな。」これはイエス様の命令です。キリスト者は神さまに代わって人を裁いてはいけないのです。私たちは人の評価を気にして神さまの報いを失ってしまうことがあります。一方で私たち自身が人を評価し裁くこともあるのです。「裁く」というのは大変強い言葉です。白黒をつけるということですが、ここでは人を罪に定めるということでしょう。そこで、イエス様は言われます。「兄弟の目にあるおが屑は見える」、つまり他人の罪にあなたがたは敏感で、神さまに代わってそれを裁こうとする。けれども、「自分の目の中の丸太に気づかない。」自分の目の中に丸太があっては物を見ることなどできません。何が見えていないのでしょうか。それはまことの裁きをなさる神さまの御心です。神さまの御心が見えていないのに人を罪に定めるようなことは決してしてはいけない、とイエス様は教えられるのです。だからまずすべきことは自分の目の丸太を取り除くことです。どうしたら取り除くことができるでしょう。それは私たち自身にはできないことです。そのために来てくださった方が救い主であるイエス様です。おが屑や丸太は「罪」を譬えています。この罪を取り除くためにイエス様は十字架にかかってくださいました。そしてイエス様の十字架よって神さまの御心を私たちは見ること(知ること)ができるようになったのです。神さまの御心は「ひとりも滅びない」こと、「罪人を赦すこと」であったのです。この神さまの御心によって罪赦され、救いをいただいたのです。どうして人を「お前は救いに値しない罪人だ」と裁くことができるでしょうか。

201892日)

2021年8月19日木曜日

マタイによる福音書6章25~34節

 大変よく知られたイエス様のみ言葉です。6章のまとめとして、神さまを父として信じて生きる私たちに、神の国と神の義を求める生き方を勧めておられます。このイエス様のみ言葉を行っていくところに神の国の恵みが与えられていきます。「行っていく」というのは、当に文字通り「行う」ということです。ここでイエス様は「空の鳥をよく見なさい」、「野の花がどのようにして育つのか、注意して見なさい」、と言われています。神の国の恵みを真にご存知であり、神の義を教え、実現される救い主であるイエス様が「しなさい」と言われていることを、まずやってみることです。イエス様が「空の鳥をよく見なさい」と言われたみ言葉を思い出したら、見上げて鳥を探すのです。「野の花を注意して見なさい」と言われたから、足を止めて野の花を見つめるのです。イエス様が教えてくださったようにしてみることから神の国に生きる現実は始まるのです。神の国と神の義を求めるとはそういうことです。父なる神を信じ、イエス様を信じて、やってみなさいと勧められることを「やってみる」ことです。一体それが何の意味があるのか、どういう理屈で思い悩むことから私たちを解放してくれるのか、と考えはします。でも実行しないのです。たかだか数十年の人生経験から分かったつもりで永遠の神の愛を見損なって歩いているのです。まず、やってみてください。それが信じて生きるということです。そうしたら、「みな加えて与えられる」、とイエス様は断言しておられるのです。

2018819日)

マタイによる福音書28章16~20節

 復活されたイエス様と弟子たちの出会いの場所は山でした。そこで聞いたイエス様のお言葉は、新しい時代の始まりと、その時代の中へと使命を与えて弟子たちを派遣する言葉でした。これは、旧約聖書の出エジプト記のシナイ山での神様とイスラエルの民との契約と、律法が与えられた出来事が意識されてい...