2021年10月28日木曜日

マタイによる福音書15章21~28節

 イエス様は異邦人の住むティルスとシドンの地方にわざわざ行かれました。イエス様が異邦人の地に行かれなければカナンの女に出会うことはなかったでしょう。偶然の出会いではなく、カナンの女の「憐れんでください」という願いを聞くために赴かれています。にもかかわらず、女の願いにイエス様は沈黙されています。弟子たちの言葉を受けて、ようやくイエス様が答えられたのは「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」という神さまの御心を明らかにされた言葉でした。女の願いのためにここまで来られたイエス様ですが、神様の御心はまだ癒しを命じておられないのです。イエス様は神様の御心に従順であり続けられました。ですから、神様の御心を沈黙の中で問い、イエス様も憐みを求めてくださっていたのではないでしょうか。やがて神様は女に見事な信仰の知恵を与えられました。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」主人である神様の憐みは食卓からこぼれる程に豊かです、と言ったのです。この神様が女に与えた知恵の言葉は、神の子であるイエス様を心から喜ばせました。神様の憐みの御心を知ったイエス様は、心から感心して、喜びをもって女の願いどおりに娘をいやしてくださいました。

202022日)

マタイによる福音書15章1~20節

 「イエスは、何者か?」が大きなテーマとなっている箇所を読んでいます。エルサレムの宗教的な指導者たちにガリラヤで活動されている新進のラビとしてイエス様のことが伝わったのでしょう。そこでイエス様の言動を監査するためにファリサイ派と律法学者がやってきます。そこで彼らは、イエス様の弟子たちが食事の前に手を洗わないことを見咎めました。当時のユダヤ教では「汚れ」を清めることが重視されていました。「汚れ」は、神様にふさわしくないことを意味します。異邦人や罪人と一緒に過ごしたなら、彼らの汚れを洗い落とさないといけないと考えて、熱心に洗うのです。その根拠は「言い伝え」でした。人の言葉でした。それに対して、イエス様は「神の言葉」に立って反論されます。神の言葉よりも人の言葉を重んじる時、救いは「人の功績」によって決まります。しかし、救いは神様の御心によって定められます。神様は人を愛し、神の言葉としての律法を与えてくださいました。人を神の祝福から遠ざける行いを戒められました。それは人を救うためです。神の言葉を人の言い伝えで曲げてしまい、それを神の言葉よりも大切にするのはおかしなことです。イエス様は、神の子として神様の御心を最もご存知です。だから、律法をお与えになった神様の救いの御心もよくご存じです。体の外から汚れがくるのではありません。私たち自身が罪によって神様から離れているのです。このような私たちの救いのために、神の言葉の成就として来られたのがイエス様です。

2020119日)

マタイによる福音書14章22~36節

 五千人に食べ物をお与えになったイエス様の奇跡に触れた弟子たちは、大きな興奮を感じていたことでしょう。パンを配るたびに人々から感謝されたことでしょう。しかし、一見すると熱心に見える彼らの思いは、まことの救い主であるイエス様を見失っているものでした。そこでイエス様はすぐに弟子たちを群衆から引き離して、彼らだけで向こう岸へ向かわせられました。しかし、向こう岸に向かう途中で強い風のために進むことができなくなってしまいました。イエス様の命じられた言葉に従って、舟を進ませようとしても風と波のために動けません。大事なのは、この時イエス様が一緒に舟に乗っておられないということです。御心を信じて出発して、困難に出会った時、イエス様の導きを求めて祈ります。しかし、祈りに手ごたえがないこともあります。イエス様の御心は「向こう岸へ行け」と、はっきりしているのに、思うように進めないし、助けを求めてもイエス様のお姿は見えない。そこにイエス様が近づいて来られます。救い主のお姿がここにあります。奇跡をもって人々の称賛を集めるところに立った信仰は救い主を見失わせ、興奮に心を奪われます。それは波を恐れて沈みそうになったペトロのように、私たちをつまずかせます。しかし、まことの救い主であるイエス様は、その時に最も近くにいて手を伸ばして私たちを救ってくださるのです。神様を見失い、他のものに心を奪われる罪人である私たちを引き上げ、救うために来てくださったのが救い主です。このような救い主に出会った時に、「本当に、あなたは神の子です」と告白する信仰が与えられたのです。

2020112日)

マタイによる福音書14章1~21節

 領主ヘロデはイエス様を洗礼者ヨハネが生き返ったのだと理解しました。ヘロデが捉われたのは「恐れ」でした。自分の罪を責められることを恐れ、ヨハネを殺すことで人々から受ける非難を恐れ、宴会の席で恥をかくことを恐れました。救い主の到来を迎えない者は、どんなにこの世で力があるように見えても、恐れに支配されています。そして恐れる人に群がり、その宴会の席で腹を満たす人々がいます。その宴会の行きついた先にあったのが「死」でした。一方で、イエス様はヨハネが殺害されたことを聞いて、人里離れた所に一人で行かれました。神の言葉に生き、死んだ預言者のことは心痛める出来事だったのでしょう。ゲッセマネの祈りを思い起こさせる父なる神との祈りの時を持ったのでしょう。そこに群衆が後を追ってきます。父なる神と共に救いのご決意を新たにされたイエス様は、救い主として人々を深く憐れまれました。そして、一つの奇跡をもって神様の恵みをあらわしてくださいました。5千人に食べ物を与えた奇跡は、ヘロデのように恐れに支配され、恐れる者を食い物にして死を生み出すこの世の支配に対して、神様の憐みの支配を明らかにされました。ヘロデの宴会も、イエス様の奇跡も、どちらも腹を満たされた者がいます。しかし、「死」を楽しむこの世の支配と、私たちの僅かなものを「良い言葉」によって祝福して、喜びをもって満たしてくださる神様の支配は、まるで違うものでした。

20191215日)

2021年10月7日木曜日

マタイによる福音書13章53~58節

 イエス様は故郷(ナザレ)に行かれました。里帰りではなく、他の町や村へ行かれたことと同じで、福音を告げ、神の国の到来を教えるためでした。会堂で教えられたイエス様の姿に、ナザレの人々は驚きました。この驚きは、あり得ないものを見たというような強い驚きです。そして、繰り返して、「一体どこから得たのだろう」と言いました。自分たちはイエスをよく知っていて、家族のことも知っている。だからこんな力ある教えと奇跡の力をイエスが持っていることなどありえないはずだ、と言い合ったのです。この人々の姿を聖書は「不信仰」と呼びます。なぜなら、救い主の到来を迎えなかったからです。自分たちを驚かせた教えや知恵や奇跡よりも、「自分たちは知っている」ということに留まったのです。そのために、イエス様も奇跡をあまりなさいませんでした。おそらく憐れみの心から、僅かな病人を癒された程度で、それ以上の奇跡をお見せにならなかったのでしょう。イエス様は神様の独り子であられ、私たちの罪をすべて背負って、十字架にかかって死んで下さったという、人間の常識をはるかに超えておられるお方であるということです。私たちの考えの中に救いはありません。あくまで私たちの考えの中でイエス様を理解しょうとすると、つまずきが生じます。信仰は、私たちの知っている世界をはるかに超える神様のもとから来られたイエス様を迎え、慣れ親しんだ世界からイエス様と共に生きる新しい世界へと出ていくことです。

2019128日)

マタイによる福音書13章47~52節

 たとえ話を語られて後、イエス様は弟子たちに「これらのことがみな分かったか」と弟子たちに聞かれました。天の国のたとえ話を通してイエス様は、一つは「古いもの」として、救い主がいなければ救いを求めても行き詰ってしまう私たちの姿を教えてくださいました。それが、たとえ話の中に取り残される群衆の聞き方でした。そして弟子たちには、救い主をお迎えしたものに開かれている「新しいもの」として、救い主をお送りくださる神様の御心を天の国の秘密として教えてくださいました。47節からの最後のたとえ話は、弟子たちに向けて語られています。弟子たちは「人間をとる漁師」として招かれました。しかし人々を救われる者と救われない者に選り分ける者ではありません。救いを定めるのは神様です。救い主としてイエス様が来られ、十字架において私たちの罪を贖ってくださった時、神様の御心は、私たちを救う者と、滅ぼす者とに分けることではなく、世を救うことのみにあることが明らかになりました。天の国のことを学ぶとは、独り子を与え、私たちを救うという神様の御心を知ることです。そのような人をイエス様は学者に喩えられました。イエス様の弟子は、救われるために何をすべきかを学ぶのではなく、私たちを救うために神様が何をしてくださったかを知らされ、救いをいただき、自分の倉から取り出す学者のように人々に証しする者です。

2019121日)

マタイによる福音書13章44~46節

 小さなたとえ話が二つ続いています。たとえ話の言葉のみで読むと、畑に隠されていた宝と高価な真珠が神様の救い、畑で宝を見つけた人と商人が神様の救いを求める人にたとえられているように聞こえます。神様の救いは、全財産を売り払ってでも手に入れるべきものです。しかし、それは偶然見つけた宝のように、救いは偶然の賜物なのでしょうか。高価な真珠を探し求めても見つからないかもしれません。そもそも、洗礼を受けた私たちは、一体いつ全財産を要求されたでしょうか。全財産と引き換えに神の救いを買うことなどできません。つまりこのたとえ話もイエス様を抜きに考えると行き詰ってしまうのです。そこで、イエス様を鍵として聞き直すと、このたとえ話はまるで違ったものになります。畑で宝を見つけた人と真珠を探している人は、イエス様のことです。そして宝や真珠に喩えられているのは、神様の救いをいただいた私たち自身です。イエス様は私たちを救うためにご自分の一切を捨てて世に来てくださった救い主です(フィリピ268節)。世に来られ、高価な真珠を探す商人のように、御国の子としての私たちを見つけ出してくださいました。そして、御自分自身の命を、私たちを罪から贖うための代価として与え、十字架にかかってくださいました。イエス様の十字架によって私たちは神様の救いをいただいたのです。私たちが探し、私たちが代価を支払うのではありません。イエス様によって私たちを救ってくださることこそ、神様の御心なのです。

20191117日)

マタイによる福音書28章16~20節

 復活されたイエス様と弟子たちの出会いの場所は山でした。そこで聞いたイエス様のお言葉は、新しい時代の始まりと、その時代の中へと使命を与えて弟子たちを派遣する言葉でした。これは、旧約聖書の出エジプト記のシナイ山での神様とイスラエルの民との契約と、律法が与えられた出来事が意識されてい...