2021年10月7日木曜日

マタイによる福音書13章34~43節

 イエス様による「毒麦のたとえ」(2430)の説明です。その前に、たとえ話について預言の言葉が引用され、「天地創造の時から隠されていたことを告げる」、とあります。天の国のたとえは、神さまの天地創造の時からの御心を伝えるために語られているのです。では、その隠されていた御心とは何でしょうか。それが「毒麦のたとえ」を通して教えられます。毒麦のたとえは、たとえ話の中に取り残されると、毒麦のような私たちに良い麦となることを教えているように聞こえます。しかし、毒麦がどうしたら良い麦となれるでしょうか。そこで、このたとえ話を語ってくださる救い主イエス様が鍵となります。天地創造の時、神さまは「在る」ことを願われて私たちを創造してくださいました。神さまの御心は私たちを失わないこと、神と共に在れ、ということです。つまり、そもそも私たちは毒麦として滅ぼされるものではなく、神さまと共に在ることを願われている良い麦、つまり「御国の子ら」なのです。どんなに神さまから離れ、毒麦に似た姿となっていても、私たちは天地創造の時から私たちは、「滅びてはならない」という御心を向けられている、紛れもない良い麦なのです。神さまによって滅ぼされるべきつまずきとなる者や不法を行う者、からみつく罪に捉えられて毒麦と見分けがつかなくなっています。しかし、救い主イエス様が来てくださいました。そして、十字架において罪の贖いを成就されたとき、私たちは御国の子であることが明らかになりました。誰もが御国の子らの姿を取り戻し、「正しい人々」と呼ばれて、父の国で太陽のように救いの喜びに輝く救いをいただけるのです。

20191110日)

マタイによる福音書13章31~33節

 イエス様のたとえ話が続いています。「からし種のたとえ」と「パン種のたとえ」では、共通しているのはきっかけは小さいものだということです。もう一つは、からし種もパン種も、蒔かれ、加えられたら分けることができないということです。からし種やパン種が神さまの言葉であることから、神の言葉は働いて隣人を休ませる大木のように、あるいは飢えているものを生かすパンのように私たちを変えるのだと、聞くことができます。これが群衆の聞き方です。ユダヤの人々は、神の特に律法を大切にしていました。律法はどんな小さな言葉でも、しっかり聞きなさいということを教えていることになるのでしょうか。大切なのは、このたとえが「天の国」について教えているということです。天の国とは「神さまの御心が実現する」こと、言い換えるならば神さまの支配を意味する言葉です。そこでイエス様を救い主として信じる弟子として、このたとえ話を神さまの御心を教えているものとして聞き直すと、受け取る側ではなく「からし種」、「パン種」としてイエス様が神さまによって与えられていることが、最も大事なことです。他の種では駄目なのです。どんなに小さくても、「からし種」であるイエス様を与えられなければ、空の鳥が巣を作る大きな木に喩えられる、天国の恵みは育たないのです。どんなに僅かでも「パン種」以外の「種」を加えたなら、粉全体が腐ってしまいます。神さまは、私たちに対する救いのご決意の実現のために、蒔かれて死ぬ種としてイエス様が世に与えられました。そこから大木のように隣人を休め、パンのように隣人を生かす愛が世に証しされるのです。

2019113日)

マタイによる福音書13章24~30節

 種を蒔く人に続くイエス様のたとえ話です。種を蒔く人を聞いた時と同じように、まずたとえ話の中に、それからイエス様を鍵として天の国の秘密に導かれていきましょう。このたとえ話は天の国について二つのことを語っています。一つは天の国に迎え入れられるのは良い麦であること、もう一つは、毒麦と良い麦は私たちでは見分けがつかないということです。そこで、主人である神様は、間違って良いものを滅ぼすことのないように、毒麦と一緒に育て、収穫の際に見分けて、毒麦は焼き、良い麦は倉に納める―つまり天の国に入れるとされました。そうすると、私たちが救われるためには、良い麦になることが目標となります。しかし、毒麦が良い麦になることがどうしてできるでしょうか。そこで救い主であるイエス様が鍵となります。イエス様が十字架によって私たちを救ってくださったのは、私たちが良い麦になれないからです。毒麦は良い麦に自分自身ではなれません。そこで天の国に入れるかどうかを決められるのは刈り入れの時の主人の言葉にかかっていることが大事になります。神様から見て毒麦のように役に立たないものであっても、神様が迎えると決めて下されば、救われるのです。イエス様が十字架で私たちの罪を贖ってくださり、私たちに代わってただお一人神様の裁きを受けてくださいました。唯一の良い麦であるイエス様によって、毒麦である私たちは救われるのです。これが天の国であり、神様の御心が成就することなのです。

20191020日)

マタイによる福音書13章18~23節

 イエス様のたとえ話は、語られた言葉を分析するだけでは神の国の秘密を悟ることはできません。十字架にかかり復活された救い主であるイエス様を手掛かりとしたときに、神の国の秘密へと私たちを導いてくれます。種を蒔く人のたとえは、まさにこのことを私たちに教えてくれるたとえ話です。このたとえ話を解説されるイエス様が大事にされるのは「悟る」ということです。良い地とは「御言葉を聞いて悟る人」と言われています。道端・石地・茨の間、いずれも実りにいたることができませんでした。神の国の秘密を悟り、その恵みにあずかることができないという点では良い地以外はみな同じです。どうして悟れないのでしょうか。それは神様がまだ悟ることを許されないからだとイエス様は言われました(11節)。神様が許さないと私たちは良い地となることはできないのです。しかし今や悟ることが許される時が来ました。神の国の秘密の鍵であるイエス様が私たちを神の国の秘密へと導いてくださいます。道端のような者、石地のような者、茨のような誘惑に負けてしまう者、そのような悟ることのない者がやがてイエス様を十字架につけろと叫びました。しかしそこに私たちすべてのものを良い地として受け入れてくださる神様の救いがあります。豊かな実りにたとえられる神様の恵みが与えられます。

20191013日)

マタイによる福音書13章10~17節

 種蒔く人のたとえとそれに続く箇所は、イエス様のたとえ話を聞き、神の国の秘密を悟るための手引きのようになっています。イエス様が群衆にたとえ話をされた後、弟子たちがイエス様に近寄って、なぜ群衆にたとえ話で話されるのかを聞きました。それに対してイエス様は、神の国のことを群衆は悟ることが許されていないからだと言われました。普通、たとえ話は内容を悟らせるためにします。ところがイエス様のたとえ話は群衆にとって反対の働きをします。しかし悟ることが許されている弟子たちには、神の国の秘密を悟らせる無二の教えとなります。この不思議な二重の構造がイエス様のたとえ話の特徴です。弟子たちの質問を、ある牧師は「なぜ、あの人たち(群衆)はたとえ話の中に取り残されているのですか?」と解釈しました。イエス様のたとえ話は、難しいストーリーはありません。だからすぐに分かった気になります。そのように聞く者を捕えて、たとえ話の中に閉じ込めてしまうのです。たとえ話の中で、たとえ話の言葉をいくら探っても神の国の秘密は見つけられません。しかし、弟子たちにはイエス様がおられます。たとえ話を聞くときに大事なのは、たとえ話ではなく、たとえ話をされた方を知るということです。イエス様こそが閉じ込められたたとえ話のから脱出し、神の国の秘密へと導かれる鍵です。イエス様の十字架と復活の福音を鍵として、たとえ話は神の国へと私たちを招く神の言葉になります。

2019106日)

マタイによる福音書13章1~9節

  種を蒔く人」のたとえは、イエス様がお話しくださるたとえ話を聞くための心構えを教えてくれるものです。1823節にはイエス様ご自身の解説もあります。イエス様はたくさんのたとえ話をなさいました。普通、たとえ話は伝え難いことを、伝わりやすくするために用いるものです。ところが、イエス様のたとえ話は大分違います。イエス様も、たとえ話ですから、大変に分かりやすい言葉でお話ししておられます。種を蒔く人の姿は、当時の人々にとって馴染みのある姿です。当時のやり方で種を蒔くと、道に落ちたり、石地に落ちたり、いばらの中に落ちることがあります。それらは実りません。しかし「良い地」に落ちると実り、多くの収穫をもたらします。お話はわかります。しかしこの話を通して一体何が教えられているのでしょうか。聖書を読む私たちには、すでにヒントが与えられています。このたとえ話が語られる前に、主イエスの家族とは誰か、ということが話題となり、「父の御心を行う人」が家族だと教えられました。これは神の言葉を聞いて行う人々のことです。つまり「言葉を聞く」ことがたとえ話のテーマです。しかし、それでこのたとえ話をすべて悟ったことにはなりません。それだけでは、人の話を聞く「傾聴」の話で終わってしまいます。そこで留まるならば、信仰へ至らない「群衆」の聞き方です。大事なことは、信仰の耳でもってたとえ話を聞くことです。「イエス様の言葉」、「神の言葉」を聞くことを求めることです。

2019915日)

2021年9月17日金曜日

マタイによる福音書12章46~50節

 イエス様は「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母なのである」と言われました。天の父である神さまの家に属するものが私の家族だと言われたのです。このイエス様の言葉から、やがて教会では、お互いを「兄弟姉妹」と呼び交わすようになりました。イエス様は12章で一貫して「家」を譬えに出して語ってこられました。家の外にいる者は、悪霊が主人になっている家に属する罪の奴隷です。しかし救い主であるイエス様が来られ、悪い時代の中で罪の奴隷とされていた私たちを救い、神様の家へと連れ戻してくださいます。そういう新しい時代が到来したのです。救われて、イエス様から家族と呼ばれる者を「天の父の御心を行う人」と言われました。ルカによる福音書はこの言葉を「神の言葉を聞いて行う人」と記しています。神の言葉を行うとは、神様の命のみ言葉に生かされている人ということです。ちょうど当時の家庭のありふれた光景として、一家の主であるお父さんが食卓で家族にパンを分け与えてくれるように、同じ家の家族の集う食卓で、お父さんからパンを受け取れる人は家族です。お父さんからパンをいただくことが兄弟であり、姉妹であり、母であって、奴隷ではない証拠です。そのように、神の言葉をいただいて養われていることがイエス様の家族の証拠です。そこに、「だれでも」加えてくださるのです。今は家の外から中を伺っている者たちを、必ずイエス様は迎え入れてくださいます。

201998日)

マタイによる福音書28章16~20節

 復活されたイエス様と弟子たちの出会いの場所は山でした。そこで聞いたイエス様のお言葉は、新しい時代の始まりと、その時代の中へと使命を与えて弟子たちを派遣する言葉でした。これは、旧約聖書の出エジプト記のシナイ山での神様とイスラエルの民との契約と、律法が与えられた出来事が意識されてい...