2021年9月17日金曜日

マタイによる福音書12章46~50節

 イエス様は「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母なのである」と言われました。天の父である神さまの家に属するものが私の家族だと言われたのです。このイエス様の言葉から、やがて教会では、お互いを「兄弟姉妹」と呼び交わすようになりました。イエス様は12章で一貫して「家」を譬えに出して語ってこられました。家の外にいる者は、悪霊が主人になっている家に属する罪の奴隷です。しかし救い主であるイエス様が来られ、悪い時代の中で罪の奴隷とされていた私たちを救い、神様の家へと連れ戻してくださいます。そういう新しい時代が到来したのです。救われて、イエス様から家族と呼ばれる者を「天の父の御心を行う人」と言われました。ルカによる福音書はこの言葉を「神の言葉を聞いて行う人」と記しています。神の言葉を行うとは、神様の命のみ言葉に生かされている人ということです。ちょうど当時の家庭のありふれた光景として、一家の主であるお父さんが食卓で家族にパンを分け与えてくれるように、同じ家の家族の集う食卓で、お父さんからパンを受け取れる人は家族です。お父さんからパンをいただくことが兄弟であり、姉妹であり、母であって、奴隷ではない証拠です。そのように、神の言葉をいただいて養われていることがイエス様の家族の証拠です。そこに、「だれでも」加えてくださるのです。今は家の外から中を伺っている者たちを、必ずイエス様は迎え入れてくださいます。

201998日)

マタイによる福音書12章43~45節

 イエス様の真剣な忠告です。汚れた霊は神さまの御心に逆らって私たちを支配するものです。イエス様は悪い時代の者は汚れた霊から「我が家」と呼ばれていると教えられました。マイホームと言うと素敵な言葉ですが、汚れた霊に「我が家」と呼ばれるのは恐ろしいことです。それだけではありません。汚れた霊が出ていくと私たちは、私たち自身が自分の家の主になると思うかもしれません。しかし、そうはならないのです。私たちでは汚れた霊に勝てません。「ここは私の家だ」と頑張っても、汚れた霊にとっては何の力も持ちません。空き家同然で押し入られてしまいます。自分自身を家の主人として掃除をして家を整えた分、前よりもっと汚れた霊にとっては快適になってしまうのです。そこで以前よりもひどい汚れた霊の奴隷にされてしまうのです。大事なことは、汚れた霊に負けない強い方に一緒に住んでいただくことです。それは神様です。使徒パウロはキリスト者を「聖霊の神殿」と呼びました(コリントの信徒への手紙一6:1220)。神殿とは「神の家」です。私たち自身を神さまが「我が家」と呼んで一緒に住んでくださるのです。私たちを「我が子」と呼んで守ってくださいます。汚れた霊は神さまに勝てません。イエス様は十字架の贖いの救いの御業によって私たちを新しくして、神さまの住まいとしてくださるのです。汚れた霊に支配された悪い時代から私たちを救い、「神は我々と共におられる」という新しい時代を与えてくださるのです。

201991日)

マタイによる福音書12章38~42節

 律法学者とファリサイ派の人々がイエス様に「先生、しるしを見せてください」と言いました。主イエスが神から遣わされた神の子、救い主であるという証拠を見せろということです。イエス様は大変にきつい言葉でお答えになりました。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる。」「よこしま」とは「倫を外れている、姦淫を犯している」という意味の言葉です。聖書はよく神様と神の民(イスラエル)の関係を結婚に喩えています。結婚のように契約と愛によって結ばれた関係です。結婚に喩えられている神様との関係を裏切っているから「しるし」を求めるのです。神様の愛を信じられないから「証拠」を示せと迫るのです。既にイエス様は、病を癒し、悪霊を追い出し、死者を生き返らせるという奇跡を行ってきました。しかし、神様の愛を信じられない者は、どんな「しるし」を見ても、神様の愛を信じて悔い改めることはできません。「よこしまな時代」の中に生きる者は神様に近づくことができないのです。信仰は証拠を求めていくところに生まれるものではありません。だから、全く新しい「しるし」が与えられることをイエス様は教えられました。それは、私たちのために神の独り子であるイエス様が十字架にかかって罪の罰を代わりに受けて死んでくださり、死から復活されることです。私たちを愛する神様は、愛する子を死に渡されました。しかも神様の愛は、死に勝利され愛するものを復活させる愛です。この救い主イエス様の十字架と復活の時によって、「よこしまな時代」は終わりを迎え、十字架と復活を信じる信仰が神様によって与えられる時代がはじまったのです。

2019818日)

マタイによる福音書12章33~37節

 ここでイエス様が問題としておられるのは、私たちの発信する「言葉」です。言葉が証拠となって神さまの前で義と罪が定められると言われます。なぜなら言葉は心にあふれていることを発しているからです。この箇所を「きれいな言葉を使いなさい」という教えとして読むだけでは済まないのです。むしろ、そのような誤魔化しを許さない厳しく私たちを罪人として指摘するイエス様の言葉なのです。「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。」学生の頃、「話した言葉は決して消すことができない。書いた言葉は消しゴムで消すことも、訂正することもできる。けれども、話した言葉は決して消すことも、訂正することもできない。それを聞いた人の中に残り続ける」、ということを先生から聞いて、恐ろしく思ったことがあります。まして、ここで私たちの言葉を聞いておられ、責任を問われるのは神様です。誤魔化すことはできません。一体誰が罪に定められることなく神様の前に立てるでしょうか。一人もいません。誰も義に定められません。しかし、この罪の行き詰まりを語られた方こそが、この行き詰まりを打ち砕く救い主でした。罪の実りの報いを十字架で身代わりになって引き受けてくださいました。私たちは悪い木として切り倒されることなく、神の国に移されて、まことの父である神様から良いものをいただいて、良い木として良い実を結ぶ新しい命を与えられるのです。

2019811日)

マタイによる福音書12章22~32節

 悪霊に苦しめられていた人がイエス様のところへ連れてこられました。安息日でしたがイエス様はすぐに悪霊を追い払って、一人の人を神様のもとへと取り戻してくださいました。群衆の中にはイエス様の御業を見て「この方こそ神様が遣わされた救い主だ」と受け止めた人もいました。するとファリサイ派の人々はイエス様が「悪霊の頭」であるから、悪霊に指図していると言ったのです。それに対してイエス様は、「それは内輪もめだ」と言われました。イエス様が悪霊を追い出されたのは、悪霊との戦いに勝利したからです。そしてイエス様は「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」、と言われました。さらに「だから、言っておく。人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦される」と言われ、また「人の子に言い逆らう者は赦される」と言われます。どんな罪を犯している者でも、どんなに神様を冒瀆している者でも、赦していただけるのです。人の子とはイエス様のことです。イエス様に言い逆らう者ですら赦されるというのです。赦されない罪などない、ということです。その罪の赦しは何によって与えられるのでしょうか。主イエス・キリストが、私たちのために、サタンと、罪の力と、戦って下さり、ご自分の苦しみと死と復活によって勝利して下さったことによります。イエス様は、神様の救い(神の国)の外に立つのではなく、その中で神様と一緒に救いを喜んでほしいと言われたのでした。

201984日)

マタイによる福音書12章9~21節

 イエス様はユダヤ人たちの会堂にお入りになりました。会堂では、安息日に多くの人々が集まって律法を学び、祈る礼拝をしていました。「すると、片手の萎えた人がいた」(10)。ファリサイ派の人々は片手の萎えた人が目の前にいれば、イエス様が癒しの業をするに違いない、と考えました。病気の人を癒すことは仕事です。安息日には仕事をしてはいけないのです。ファリサイ派は、安息日に人々が集まっている会堂の真中ですれば、多くの証人の前で、明確に、イエスは安息日の律法に違反していると訴えることができる、と考えました。そしてイエス様に「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と問いました。イエス様は「安息日に善いことをするのは許されている」と言われて、手の萎えた人を癒されました。それは、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」(マタイ127)の神様の御心の実践でした。安息日の掟は神様の憐れみの御心によって与えられているものです。人々が神様の恵みの御心の中で、安息を与えられる、神様の憐れみの中で憩うことができる、そのために安息日はあるのです。だから、安息日に癒しの業をするのは正しいことなのです。イエス様はご自分の命を懸けて、傷ついた者を折ることのないように、罪の滅びに渡さないために、神さまの憐れみを担って世に来てくださいました。神様の憐れみの御心こそ、イエス様を信じて集う教会の拠るべき土台です。

2019721日)

マタイによる福音書12章1~8節

 安息日は十戒によって定められた仕事を離れて休む日であり、礼拝の日でした。この日には仕事をしてはならないと律法は定めていて、何が仕事になるのか、ということに当時の人々は心を奪われていました。そこで安息日に空腹のために麦の穂を摘んで食べた弟子たちの行為が「仕事」にあたるとして咎めた者たちがいました。そこでイエス様は、安息日は何を根拠に定められているのか、神さまが安息日によって私たちに求めておられるのは何か、ということを旧約聖書の御言葉から話されました。

ダビデは空腹の時、祭司しか口にしてはならない供え物のパンを食べたが、神さまはそのことを咎められたか。また安息日に神さまの御心に従って働く祭司は仕事をすることが許されているではないか。それは神さまが求めているのが「憐れみ」に他ならないからだ。

安息日は神様の憐れみ、すなわち愛に基づいて与えられている日です。だから、安息日を与えてくださったことを真剣に考えるならば、仕事か仕事でないかを議論して、人を咎めて罪人に定めることに熱心になるのではなく、飢える者の空腹を満たすように、神様に仕える祭司のように、神様の愛と憐れみをあらわすことを、神様は求めておられるのだ、とイエス様は教えられました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(11:28)。神様の憐れみへ招かれるイエス様は安息日の主です。

2019714日)

マタイによる福音書28章16~20節

 復活されたイエス様と弟子たちの出会いの場所は山でした。そこで聞いたイエス様のお言葉は、新しい時代の始まりと、その時代の中へと使命を与えて弟子たちを派遣する言葉でした。これは、旧約聖書の出エジプト記のシナイ山での神様とイスラエルの民との契約と、律法が与えられた出来事が意識されてい...