2021年9月13日月曜日

マタイによる福音書9章1~8節

 イエス様が中風の人を癒してくださった話について、マタイ福音書は大胆にエピソードをカットして、読む者をイエス様へと集中させます。そこでマタイ福音書が中心としたのは、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っている」ということです。私たちの罪を赦すことがおできになるのは唯一、「神」だけです。その意味で、イエス様が罪の赦しを告げられた時に律法学者が心の中でイエス様を非難したことは、おかしなことではありません。しかし、この非難を超える事実がここに起こったのです。それが、「神が人として地上に来ておられる」という事実です。主イエスは、罪を赦す権威を持つ真の神の子であることを福音書は知らせています。そして、最後の人々の驚きも、マタイ福音書は「人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した」と記しました。この罪の赦しの権威を神は「人間にゆだねられた」と言うのです。これは主イエスの御名によってたてられる教会を意味しています。「罪は赦される」と言うのと、「起きて歩け」と言うのとどちらが容易いか、とイエス様は問われました。「起きて歩け」と言うことのできる賜物は主イエスや教会以外にも与えられています。例えば医者はまさしくそうです。「起きて歩け」というのに神の奇跡である必要はありません。今日のように医療が進歩した中ではなおさらです。しかし、「あなたの罪は赦される」という約束の言葉は、教会にゆだねられた神の権威です。これは他にはない唯一の福音の言葉であり、救いの言葉です。教会は神の子、主イエス・キリストの「罪の赦し」を世に明らかにする権威と使命を委ねられています。

2019113日)

2021年9月2日木曜日

マタイによる福音書8章28~34節

 向こう岸でイエス様を待っていたのは悪霊でした。向こう岸は神の国を喩えています。神の国は神のご支配の中にあります。イエス様が来られたことで悪霊が滅び、神の支配が明らかになりました。ここも神の国となったのです。悪霊とは何かについて明確に説明することはできません。それらは神から私たちを引き離し、悪を行わせること、神の御力によらなければ悪霊から解放されないことが聖書に記されています。ここで悪霊たちは神の子であるイエス様から逃げられないと悟ったのでしょうか、自分たちからイエス様のところに来て見逃してくれるよう懇願します。彼らはやがて自分たちは神に滅ぼされることを承知していますが、その時はまだ来ていないはずだと言うのです。イエス様のことを神の子と正確に理解していますが、しかし悪霊の本性は神を侮ることです。神の救いを「まだ」と決めつけているのです。これは神を侮ることです。しかし、私たちも救いは「まだ」と侮ることがあります。もっと学んでから、もっと清い生活ができるようになってから、と自分たちで救いの時を決めようとします。それはこの悪霊の言い分に似ているのです。悪霊の滅びを定めるのは「時」ではなく「神」です。救いの日を与えてくださるのは神です。だから、神の子であるイエス様は悪霊の言い分に屈しません。神の子が二人の悪霊につかれた男たちを取り戻すために、「今」ここで悪霊を滅ぼすとお決めになられたのです。悪霊は豚に逃げ込んで助かろうとしますが、豚と共に死んでしまいました。人間の手には負えなかった悪霊も、私たちを愛する神の子、イエス様には全く手も足も出ないのです。

20181216日)

マタイによる福音書8章23~27節

 イエス様が嵐を鎮められた話はマタイ福音書以外の福音書にも記されています。マタイ福音書はこの話を「向こう岸」へと弟子たちを送られ最後にイエス様が船に乗られたあとすぐに嵐が起こったように記しています。船に乗る弟子たちは神の国に招かれた者たちです。彼らを救いから遠ざけようとするものが「激しい嵐」に喩えられています。嵐の中で弟子たちは「主よ、助けてください」とイエス様に助けを求めます。私たちも困難に出会う時、苦しみの時、必死に助けを求めて祈ります。神さまに助けと憐れみを求めて祈ります。そんな時、イエス様はどうされていたでしょうか。眠っておられたのです。なぜなら父なる神さまを信じ抜いておられたからです。私たちを愛しておられる神は、私たちの苦しみを見逃すこともなければ、苦しみの中から救ってくださらないはずがない。だから安心して眠っておられたのです。ここに信仰があります。イエス様は失われた私たちを探し出し、向こう岸である神の国へと導いてくださいます。それは私たちが強い信仰をもって神さまにお応えしたからではありません。むしろ私たちの信仰は、こちら側に残る人々と何の変りもないほどに「薄い信仰」です。けれども一つだけ大きな違いがあります。それは、私たちの向こう岸への航海には、最高の信仰をもつ神の独り子、救い主であるイエス様が一緒にいてくださるのです。だから薄い信仰のままでいいというのではありません。イエス様をお手本にして信仰を学びます。けれども約束してくださった神の国の救いはイエス様が一緒にいてくださるから、どんな嵐も妨げることはできないのです。

2018129日)

マタイによる福音書8章18~22節

イエス様は群衆と「弟子」を区別されます。ファンである者と「弟子(キリスト者)」は違うのです。そのことが弟子に「向こう岸に行くように命じられた」ことにあらわれています。向こう岸は「神の国」を暗喩しています。この世から、向こう岸の神の国に居場所を変えられた者が「弟子」です。弟子はイエス様ご自身が探し出して神さまのもとへと連れ戻した者たちです。ここに主イエスの大切なお働きがあります。福音を告げ、病を癒し、そして「弟子」を探し出されたのです。そこに自分から進んで弟子になりたいと申し出た律法学者がいました。しかしイエス様は、彼の願いが向こう岸ではなくこちら側にあることを見抜いておられました。また、弟子が父の葬りを願い出たとき、「わたしに従いなさい」と言われました。私たちにとって向こう岸にわたるとは「洗礼」を意味します。その時に、様々な心配が私たちをこちら側に残そうとします。しかしイエス様は厳しいほどの言葉で、まずあなたは「従ってきなさい」と言われます。まず向こう岸に、神の国に居場所を得なさいと言われるのです。死を嘆くことは死に支配されている者に任せればいい。しかしそこに神の国の命の福音を携えてあなたは行かなくてはいけない。だからまず、「わたしに従いなさい」と言われるのです。信仰を持つとは、神無きものであった私たちが、神と共に生きるものとなるということです。死を打ち破る神さまが私たちに与えられるのです。

2018122日)

マタイによる福音書8章14~17節

 イエス様の病の癒しの奇跡が続けて記されます。マタイによる福音書は、山上の説教を語られたのと同じ一日の間に起こった出来事として記しています。これは、イエス様の地上での宣教のお働きの一日が、こういうものだったと教えていると言えるでしょう。つまり、神の国について教えられ、求められると病を癒してくださる。それもすぐにお応えくださいます。神の民として祝福された者が病になるのは、何か罪を犯しているからだ。本人でなければ先祖に罪があるからだ、という考えがありました。そのため病は、神さまの救いの枠から外れた状態、神から見捨てられた状態とされました。イエス様はそのような悩みを担い、人々に神さまの愛を伝え、連れ戻してくださることに熱心でした。それが病の癒しの御業にあらわれています。この癒しについて「彼は…患いを負い、病を担った」というイザヤ書の言葉の成就だと記しています。病の苦しみは消滅したのではなく、イエス様が負ってくださいました。それは「神から捨てられる」という悩みです。罪のゆえに私たちの命は死にさらされることになりました。その時から病の悩みが私たちを襲いました。罪のもたらす絶望を神の独り子が引き受けてくださったのです。救い主はご自分の一日をそのために休む暇もなくすべて費やしてくださる日々を送られたのです。その極みに十字架の贖いがありました。イエス様が神から捨てられるべき罪の重荷を負い、私たちに代わって悩み苦しんでくださったのです。

20181118日)

マタイによる福音書8章5~13節

 イエス様のもとに、僕の癒しを求める百人隊長が近づいてきました。彼もまた、普通ならば近づくことのない人です。彼は外国人でした。当時の敬虔なユダヤ教徒は外国人との交流を避けることが多かったですし、ましてユダヤを支配していたローマ帝国の百人隊長に対してはなおさらでした。しかし、「イエス様こそ救いの神であられる」という信仰が彼をイエス様へと近づかせました。ここにマタイ福音書は第一の信仰の姿を見ています。この方こそ救い主と信じたならば、まっすぐに近づくのです。私たちは救いをいただくよりも、世の事情や気遣いに心を奪われて、むしろ救い主を見送ってしまうのです。しかし事情も気遣いもイエス様は担ってくださり、救いの道を開いてくださいます。そこまで信じぬいていないのです。第二に、彼は徹底的にイエス様を「神の子」、「救い主」として向かい合っています。自分の屋根の下にお迎えできないというのも、神さまの御心を本気で尊重しているからです。神さまがお命じになれば、万物はその御言葉に服さなければならないということを信じていました。だから、余計な儀式で慰められることを求めませんでした。自分勝手に救いの実現を決めることをしませんでした。御言葉を求めました。本当に御言葉によって救われるのは百人隊長自身であることを承知していたのです。この徹底して神を神とする信仰に、神の独り子である救い主、イエス様は喜んで応えてくださいました。

20181111日)

マタイによる福音書8章1~4節

 山上でお話を終えてイエス様は山をおりられます。ここからイエス様の言行を記した箇所がはじまります。そこに重い皮膚病の人が近づいてきて、清められることを願いました。イエス様はその人を清めて病を癒してくださいました。この出来事は、山上の説教の最後の教えにあった「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」の具体的な姿です。重い皮膚病の人は、当時「汚れている」と言われていました。重い皮膚病は神さまの罰を受けていると信じられていたからです。ですから、病の苦しみ以上に、ユダヤ人でありながら神さまの救いの外に置かれるという苦しみを背負っていました。汚れを人に移さないために人々から離れていることを強制されていました。おそらくこの人は人々から離れてイエス様の言葉を聴いていたのでしょう。そして、この方ならば自分を清めて神さまの元へと帰らせてくださる救い主だと信じて近づいてきたのです。これが「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」の姿です。イエス様は、近づいてきた彼を「手を差し伸べてその人に触れ」て、迎え入れてくださいました。「手を差し伸べて」という言葉には「広げて」という意味もあります。つまりイエス様は片手を伸ばして触れたというよりも、両手を広げて迎え入れたと理解してよいと思います。「よろしい、清くなれ」という言葉も、癒しの宣言であるとともに、「そうだ、あなたは神の御腕の中にいる」という宣言です。救いの宣言です。山上の説教で語られた、「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる」「求めなさい。そうすれば与えられる」「岩の上に自分の家を建てた賢い人」の実現がここにあります。

2018114日)

マタイによる福音書28章16~20節

 復活されたイエス様と弟子たちの出会いの場所は山でした。そこで聞いたイエス様のお言葉は、新しい時代の始まりと、その時代の中へと使命を与えて弟子たちを派遣する言葉でした。これは、旧約聖書の出エジプト記のシナイ山での神様とイスラエルの民との契約と、律法が与えられた出来事が意識されてい...